放蕩息子の長男
あまり経済的に余裕がない人がいた。
その人についていろいろ悩むこともあったから、友人に相談したりもした。
その結果、私にできることをしてあげようと思った。
でもその人に私ができることをするたびに、私の心は冷めていった。
なんでこんなことをしているんだろう? と。
それでも自分が経済的に余裕がない時代もあり、そのたびにいろんな人に助けられたしなあ
と思い続けて、今までの恩を返すつもりでやってきた。
ある日、その人と会った。
その方は新しい服を着ていた。一目でわかった。
「あっ、私が買おうと思ってた服だ。。。。。」
口には出さなかったけど、なんだか心がざわついた。
私はあの服、買わなかったのに。。。。
別に高い服じゃない。お値打ちの服だったけど、私は我慢したのに。。。
なぜこの人が着てるんだろう。。。。経済的に余裕ないんじゃなかったの???
新しい服、買う余裕あったんだ。。。
そんな風に思えた。
ここのところ、毎週友人たちとバイブルスタディーをしている。
私と友人に教えてくれているのは、宣教師ちゃん。
その日のスタディは、俗にいう「放蕩息子」の話しだった。
ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた[1]。
そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。
父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。
父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(口語訳新約聖書 ルカ 15:11-32)
友人がこんな風に聞いた。
この兄は、それで納得したの?と。
私が言った。
しないでしょ?絶対兄ちゃん、面白くないよね。
宣教師ちゃんが言った。
この部分はよく放蕩息子の次男について語られることが多いけど、私は長男について
話する方が好きです。
与えられた仕事を一生懸命するのも大事だけど、神の愛を悟ることができない可能性がある。
神様のためにする!というけれど、神の御心を推し量れず仕事だけ残ってしまうことがある。
神の愛を感じないで仕事だけしていれば、私たちもまたこの長男のようになってしまう。
長男も父のことをもっと理解していたのなら、父と一緒に弟の帰還を喜べたはず。
だから与えられた仕事だけをするのではなく、父の心を知って一緒に楽しむ生活ができればいいと思います。と。
このバイブルスタディーのあとで、思った。
あ~ヤバい!私って長男だわ。まさしく長男だった。。。
友人が服を買えたことを喜んであげるべきだったんだ。
あ~.......................................😥😥😥😥😥😓😓😓😓😓
ずっとこのことばかり1週間考え続けた。
自分がいかに長男のようだったのかを。
そして思った。
きっと一生忘れないだろう。このことをと。
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